建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2003年4・5・6月号〉

interview

第一回 | 第二回 | 第三回

国土学を提唱−国土にはたらきかけるインフラ整備とその恩恵の体系

公共事業批判の陰に見落とされている社会資本の価値

国土交通省技監 大石 久和 氏

大石 久和 おおいし・ひさかず
昭和20年4月2日生まれ
本籍 兵庫県、京都大学大学院工学研究科卒
昭和 58年 4月 近畿地方建設局奈良国道工事事務所長
61年 4月 中部地方建設局沼津工事事務所長
63年 1月 中部地方建設局企画部企画調査官
平成 5年 4月 国土庁計画・調整局総合交通課長
7年 6月 道路局道路環境課長
8年 7月 大臣官房技術審議官
11年 7月 道路局長
14年 7月 現職

(第一回)

公共事業への風当たりは依然として根強い。だが、そこには完成後の社会資本としての価値を検証する視点が欠けている。社会資本は、政治も経済も文化も娯楽もありとあらゆる人間の生活、活動の基盤にあるものである。その国土という資源を有効活用することによって、人間の生活空間と環境、機能が向上し、そして社会体系や制度が構築・発展してきた。そうした人類の歴史のあり様は、古代ローマのアッピア街道を例に引くまでもない。国土交通省の大石久和技監は、国土を知り、国土の使い方を考え、それによって恩恵を受ける人間の行動体系を「国土学」という新概念によって表現する。
――国づくりのために、インフラ整備が進められていますが、それが公共投資である以上、配当が必要になります。その配当は、整備されたインフラをよく用いることによって得られるものだといえるでしょう
大石
近年は、社会資本整備や公共事業という表現を使用することで、多くの人にとって実体が分かりにくくなっています。そのため、私が最近提唱しているのは、「国土学」というものです。我々事業者の努力の総体を、そう表現して説明した方が分かりやすいものと思っています。
この国土を、これからどのように作り上げるか。また、これまでにどのように作り上げられてきたものを、我々は現在、預かっているのかを再検証すべきです。我々の大先輩たちが、古くは大和朝廷の時代から、インフラ整備によって営々としてこの国土に働きかけてきた、その成果を我々は受け継いでいるわけです。逆に我々もまた、次の世代のため、あるいは現世代の我々のためにも、より良く使えるように努力をしなければならないと思います。
その努力の対象たるインフラとは、社会資本整備以外のものも含まれます。たとえば、法制度もある意味ではインフラです。また、国内の地籍は完全には確定していませんが、その地籍を完璧に確定させていくということもインフラです。
そうした努力と相俟って、物理的に国土に働きかける行為を、我々は戦後以来「社会資本整備」と呼んできました。その社会資本整備を、単年度ごとの事業として表現したときに「公共事業」と呼ぶのです。したがって、近年、批判的に論議される「公共事業論」というのは、単年度思考の議論でしかないのです。この点を鮮明に認識してもらわなければなりません。
――公共事業論といえば、単年度の事業費の大きさに目がくらんでしまい、完成後にもたらす恩恵の偉大さを見越していないものが多いと感じます
大石
したがって、本来は全国規模のメディアが、その基本認識を定着させる努力をして欲しいと思います。
例えば、道路公団の民営化と高速道路の議論が沸騰しましたね。確かに、我々自身も、高速道路については現行の料金水準で良いのか、収益性の高い東名・名神をプール制の中心にした場合、その余力の波及する範囲はどこまでなのかを論議してきました。しかし、その結論が出る前に、経済情勢は右上がりに伸びる可能性がなくなってしまい、我々が思っていたより早くに、マイナス成長の時代が来てしまったのです。
したがって、今後はどのような制度設計が必要かを議論することは、当然必要です。もちろん、我々もそのための準備はしていました。
しかし、今、日本国民が国土を有効に使うために、或いは自らの生産活動や消費活動を円滑にしたり、安全にしたり、確実にしたりするために、現在のインフラは十分なのかどうか。このことを十分に検証したのかどうかが重要で、最近の議論はその検証をほとんど度外視しています。
国土への働きかけとは、具体的には河川改修、道路整備、空港整備、港湾整備、あるいはインターネット回線としての光ファイバー敷設、または美しい街の景観や、安全度を高めて次世代に引き継ぐための電線地中化や緑化など、あらゆるインフラ整備の総体と位置づけるべきなのです。
その視点から言えば、最近の議論も、十分なものではないと感じています。この国土への働きかけということを、直感的に分かっていただく言葉として、「国土学」を提唱しているわけです。
国土学とは、この国土が歴史的にどんな成り立ちで今日まできたか、世界の諸国に比較して、国土の大きさや形、平野の成り立ちを認識し、そして隘路が多いこの国土の構造に対して、国土が持っているエネルギーを最大に発揮していくために払われた努力を指しているわけで、このように捉えられるなら、理解されやすいものと思っています。
――近年は、社会資本を身近に感じてもらうために、土木現場を公開するケースが増えていますね
大石
最近になって、土工協が100万人の方に現場を見ていただこうという運動を始めました。その運動と機を一にして行ったのですが、私たちも、建設の現場には、特に家庭人である女性に来ていただこうという企画に着手しました。家庭人としての女性というのは、ご自身の生活もあるが、のみならず子育てを預かり、ご亭主の生活にも関与し、さらにはご自分の両親、ご亭主の両親など、実生活全般に深く関わっているものです。そうした人々の暮らしと、我々が提供しているインフラとの距離を考えていただくために、現場を見ていただき、現場で考えていただく機会を作ろうと呼びかけています。この企画は、全国の整備局の工事事務所で、万単位のオーダーで進められています。
もちろん、女性だけにこだわっているつもりはありませんが、多くの方々が公共事業、社会資本整備といえば、自らの暮らしとは遠いところにある関係のない世界との観念を持っています。中にはダーティーで、できれば触れたくない世界のように見えていたりしますね。
しかし、蛇口を捻ったら水が出て、流せば処理されるという仕組みは、大変な努力の成果として受け取っているわけです。だからこそ安心して家事活動ができるのであり、子育てもできるわけで、今日はインフラなくしてどんな生活も成り立たないのが現実なのです。
かつては、都市部ではそうした恩恵があり、田舎ではその恩恵がありませんでした。私の田舎では、井戸から瓶で水を汲んで生活していたものです。その瓶が担げないので馬鹿にされたものですが、今日ではそうした田舎でも、蛇口を捻れば水が出るし、下水道も整備されています。我々はそうしたインフラに生活を預けている部分が、確実に大きくなってきているのです。
――生活基盤が概ね行き渡ってしまうと、国民はそれ以上のものを望まない傾向があるのでは
大石
例えば、下水道の普及率は約60%ですが、それで終わりにはならないのです。というのも、今までは電話線容量のレベルで入ってきた情報が、これから光ファイバーレベルで各家庭にまで入るようになります。のみならず、家庭からも情報発信することもあります。
最近では、医療情報システムなど、自宅のベッドに寝ていながら、脈拍や発汗量などを調べてくれるなど、まるで常時医者に見守られているような状態で過ごせるシステムも開発されています。こうした技術やシステムは、今後さらに進化すると思います。
そうなると、家庭からの情報が、常時極めて高度な判断のできる医者の下で管理されるという時代が来るはずです。これによって、医療過疎地においても、距離や時間を乗り越えることができるようになるでしょう。しかし、そのためにはインフラが必要なのです。
ただし、これは光ファイバーが敷設されれば終わりというわけではなく、今後はいろいろな情報家電などが普及し、生活様式は変わってくると思いますね。かつては、マルチハビテーションという言葉が一時的に流行りましたが、暮らし方や住まい方、住む場所など、一生の中でどの時代をどこで過ごすかの選択が、もっともっと自由な時代が来るでしょう。それを可能とするインフラが、住宅政策含めてあるのだと思うのです。
また、それを実行しなければ、少子化高齢化という時代を、日本は安全に乗り切ることができないのではないかと思います。そのためには、それを可能にするインフラが必要です。
――最近は、福祉のまちづくりが求められており、インフラ整備にも福祉的発想が必要になっています
大石
バリアフリーといえば、障害者に優しい政策として捉えられていますが、私はそれは間違いだと思っています。
体の不自由な方々に対して優しいまちというのは、もちろん健常者に対しても優しいまちですから、大いに結構だと思います。しかし、それをモラルや倫理観の世界で言っているうちはダメだと思います。
「プロップ・ステーション」という、障害者の社会参加と自立を支援しておられる竹中ナミさんという方がおられます。この方は「税金が払える障害者になろう」というスローガンの運動をしておられます。そして、「我々健常者は一日8時間は社会人だが、体力の落ちたお年寄りや、或いは障害者の方々は8時間も社会人になるのは無理かも知れません。しかし、5時間または3時間ならば社会人でいられるかも知れない」と、提唱しています。
大変分かりやすく、刺激的な発想です。そうした方々が社会に参画していただくための、都市の装置としては、例えば、今の歩道の構造はそれで良いのか、歩道と建物との関係はこれで良いのか、或いは駅舎はこれで良いのかと考え直す発想が大切だと思うのです。
――高齢者、障害者を単に保護すべき対象と考えず、経済社会を構成する一員として認識するわけですね
大石
とはいえ、私はすべてを経済に置き換えてしまえと主張しているのではありません。どうすればスマート、こうすればスムーズといったレベルにバリアフリー論がとどまっていたのでは、単なる親切運動でしかありません。この問題の本質は、そういうものではなく、そうした勤労意欲があり、能力もある方々を、我々は社会参加させていないところにあるのです。日本は、まずその反省に立たなければなりません。
そして、社会参加を実現しようとするなら、ただ我々が都市の装置を直しているだけではダメです。そこに、いろいろな諸制度が付いてこなければ生かされません。働けば働くほど年金支給額が下がり、余分に課税されるような制度化で、誰が進んで社会参加を望むでしょうか?
したがって、制度というものがうまく整えば、我々が行う都市の装置の改良と相俟って、移動しやすい、シームレスなバリアフリー交通空間の真価が発揮されるのです。
また、それを目指して施設だけで全てをカバーするのは無理で、施設と制度が相互に助け合う部分がないと、絶対に無理だと思います。ただし、施設側からも助け合いやすい仕掛けを作っていけば、厳しい時代であっても乗り越えられるものと思うのです。
――制度と装置の相乗作用が重要ですね
大石
そうです。現に、子供と高齢者を足した数というのは、当分の間はあまり変化しないそうです。高齢者は増えても、子供は減っていますから、社会の生産年齢階層が養わなければならない人口というのは、それほど変化しないのです。
だから、女性なども、もっと子育てから解放され、能力ある人も増えているわけですから、パートなどではなく本格的な戦力として社会の中枢に参入するような仕掛けが必要ですね。
少子化時代なので大変だ、などと、暗い話をしていても何も解決はしません。総理の演説ではありませんが、暗い話題からは明るい社会は生まれないものです。せっかく我々が国土づくりを担っているのに、その我々が暗い話ばかりをしていても意味はないのです。行政マンとしては、国民に「こういう国土を作っていくのですから、一緒にやりましょう」と、呼びかけるようでなければダメですね。

(第二回)

脆弱国土に暮らすという宿命をふまえたこれからのインフラ整備のあり方

我が国のインフラ整備は、戦後復興時より高度経済成長にかけて、高まる需要に応えるべく量的拡大に追われて急ごしらえで進められてきた。その結果が、社会資産としてはバラックとの辛い評価に結びついてしまった。歴史的視点から見れば、今後は資産価値の高いインフラ整備が求められることになるが、やみくもに高コストの構造物を乱造するわけにもいかない。国土全体を眺めたとき、どのような配置とバランスが重要となるのか…
――我が国のインフラは、先進諸外国と比べると整備率が低く、肩を並べているのは水道施設くらいのものです
大石
残念ながら我が国は、インフラ整備において後発隊です。イギリス、フランスにすら、後れています。
しかも、残念ながらコストも余分にかかってしまいます。この点は明確にすべきことですが、かつてはアメリカと同じものを作っても、経費は為替レートくらいの差しかありませんと説明してきました。しかし、それは間違いなのです。地震がある国とない国、軟弱地盤だらけの国と地盤が堅固な国とでは、同じものは作れません。その認識からスタートしなければならないのです。そうした事情から、日本はインフラ後進国なのです。
――そのために戦後のインフラ整備は量的拡大のみを目指してきましたね
大石
現在、「うまし国づくり」という政策大綱を作る運動をしていますが、その過程で議論になったのは、かつての亀井大臣の仰っていたことで、戦後、我々が作ってきたものは、ほとんどがバラックでしたが、これからは本格建築の時代が来たということです。
確かに、インフラ整備への需要が増大し続けていた当時の情勢から、我々は量的拡大を目指してひたすら作ってきました。その結果、日本橋の上にまで首都高速を造ったりしました。オリンピックの大会に備えるためであったり、経済成長にともない東京、大阪の都市機能を充実させるために、必要だったのです。
しかし、我々は聖徳太子の建立した法隆寺を、国民の財産として1300年にわたり、大切に預かっています。逆に現在、私たちが整備してきたものとなると、1000年後とまでは言わないまでも、100年後には「アレはなんだ」と、言われるようなものでしかないのです。これからは土木にしても建築にしても、本格建築の時代を迎えていることを自覚すべきです。
――大都市圏の再生が進められていますが、どんな形に生まれ変わるのか興味深いですね
大石
東京とはどういう役割を担う都市なのか、大阪は首都・東京とはどんな関係でどう規定していくのかといった、都市と都市との関係論を考える必要があります。
また、これから構造物が更新時期を迎えますが、更新費用がかかるから大変だと心配するばかりではなく、更新のついでに少し工夫すれば、新たな機能を付け加えることもできるのです。
分かりやすい例で言えば、橋をかける際には光ファイバーと抱き合わせることです。新設でなくても、更新の時期が一つのチャンスだと考えればよいと、私は思うのです。
――ヨーロッパでは、建物の躯体は古いまま残し、内部の機能だけを更新して近代化しているとの事例を、よく聞きます
大石
ヨーロッパでは地震もなく、国民が街中だけに住むよう、政策的に誘導してきました。政府が、街外に住むことを許可していないので、内部で更新していかざるを得ないわけです。
それに反して日本は、更新する余裕があるくらいなら、外部に出てしまったわけです。その方が、はるかに低コストだったためで、そのお陰でヨーロッパのような文化が導入されることはなかったのです。
――近年の国民の消費は、明日への投資よりも、現在の満足を求めるパターンへと変わり、モノよりもサービスにシフトしつつあると言われます。インフラ整備も、それを意識して、その需要に即応できるものに変えていく必要もあるのでは
大石
ある銀行の役職者が、著作の中で「所有から使用へ」と書いていました。例えば、住宅を持つことが目的だった時代から、今後は、ただ偶然にこの家の空間を使っているだけという意識に変わっていくとのことですね。そう考えると、日本には、まだまだ住空間として魅力的な場所がたくさんあります。
また、かつてのように、大都会にサラリーマンや、文化人などの一定レベルの知識層が集まってきたのは、教育機会がそこにしかないためでした。例えばスワヒリ語を学ぼうと思っても、おそらく東京以外では学ぶ場がないでしょう。
また収入を得るにも、例え最高レベルの芸術家でも、東京でなければ十分な機会を得ることは難しい。あるいは音楽家が海外で演奏活動に携わるにも、地方にいたのでは不便という事情があったのだと思います。
ところが、近年では、そうした障壁が低くなりつつあると思います。例えば、かつてはニューヨークタイムズの記事を読もうと思っても、リアルタイムに近いタイミングで記事を読むには、東京か大阪のような規模の都市でなければ、難しいものでした。ところが、今日では地方にいても、インターネットによって、サイトにアクセスすれば、それができるようになったのです。そうした状況を思えば、私達の国は、国民が思っている以上に距離感というものを克服してきていると思うのです。
また、かつてよく言われた“札仙広福”は、国土庁が四全総で提唱した言葉でしたが、三大都市圏に加えて札幌、仙台、広島、福岡、さらに新潟、熊本、あるいは静岡、清水などを連携させて、ハブ機能を持たせても良いと思います。実際、これによって極めて中枢性の高い都市圏が形成されてきました。
そうなると、特別に東京でなければ得られないエンターテイメントや、特殊で高度な研究は別として、かなりのものを東京・大阪に頼らず地方都市で充足できるレベルにまでなってきました。
それによって、それらの地方都市と東京との連携も向上し、それぞれの地方から各中核都市へのアクセスビリティーが向上されたなら、状況はさらに大きく変わっていくのではないかと思います。
そうなると、人々の意識はもはや「東京へ」、という一極集中のものではなくなります。これと同様にして、最近のアジア諸国も、日本を経由してアメリカやeuと結びつくのではなく、韓国や中国なども、いまや日本を経由せずに直接、アメリカと向き合っています。
したがって、日本は物理的な意味においてもアジアのゲートウェイではなくなってきており、これにともなって人々の意識も変わっていくでしょう。日本国内でも、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンへ行くのに、わざわざ東京を経由してではなく、地方の空港から直接向かうようになりつつあります。
ただ、そうしたハブ機能を47都道府県すべてでというのは、多すぎて無理があると思いますが、ブロック単位であれば、それが可能となり、そうしたブロック同士が競争しながら共存する状態になれば、かなり興味深い地域構造が見られるようになるのではないかと思います。
したがって、私たちが整備し、提供するインフラも、その手伝いをするという感覚で行うなら、より面白いものになると思いますね。

(第三回)

製造業と建設業の違いが理解されるべき

大石久和国土交通省技監は、教育にしろ、まちづくりにしろ、個性や特性を尊重し、それを生かした取り組みが必要であると強調する。それは、再編整理の必要が叫ばれている建設業にもいえることで、公共事業の発注契約システムの改正を通じて、それが実現される方向性を示唆する。ただ、規格に基づいて大量生産される製品と違い、一つ一つが特別注文される建設業の特性から、単純な市場競争が適合しづらい現実もある。必要なのは、公平公正であるためのイコールの条件であると説く。
――最近は、高等教育もかつてのように画一的ではなくなりつつあります
大石
そのためには、私は「違いを尊ぶ」という発想がもっと根付く必要があると考えます。大学へ入学するにも、東京大学により近い大学がレベルが高いとされていますが、東京大学とは全く違うことをアピールする国立大学が、本来はもっとあってもよかったのだと思います。
それは都市においても同様で、東京が一番で、ここにこそあらゆるものが揃っていて、その次に大阪が二番目として続くというのではなく、全く違う街であることを大切にすることが、重要だと思います。
かつての日本には、そうした個性があったように思います。ところが、これまで四方八方を向いていた釘が、横から高度経済成長という強力な磁力によって、一斉に同じ方向を向いてしまい、その状態がしばらく続いてきたのだと思うのです。したがって、もう一度、その磁力を遮断すれば、再び様々な方向を向くようになるのではないかと思います。
例えば、青森のブナとか、自然はそれ以外の地域では絶対に手に入らないわけです。そういうことを、もっと大切にしながらまちづくりを考えるような発想に切り替わっていけば、面白いと思いますね。建設業界も、いずれはそのようになっていくのではないでしょうか。
――建設業界も再編整理の時代と言われていますが、自力ではなかなか変われないのでは
大石
そのためには、我々発注サイドが建設産業を、そうした仕組みのものとして使いこなすことが必要ですね。公共事業でいえば、使える仕組みにしなければならないでしょう。残念ながら、その仕組みが徹底されていないところがあるため、単に企業規模が違うだけで、どの会社もみな金太郎飴のように、同じ構造になってきたのではないかと思います。
もちろん、各会社ごとにトンネルが得意であったり、マリコンのように海洋土木が得意なところもありますが、ゼネコンとなると、そうした特色がなくなっていますから、仕組みが変わることによって、今後は特色が現れるのではないかと思います。
これこそは、私たちが「コスト構造改革」と呼んでいる政策の内容であり、目的でもあります。これを言い換えれば、調達構造改革だと考えています。調達のしかたを変えるわけです。
従来のように、官が資材を調査し、単価を調べて積算し、そうして予定価格を設定して、それに近い価格で入札した建設会社に落札するという構造そのものが、時代に合わなくなってきているのではないかと思うのです。
――最近は、発注方法が様々に改正されたため、業界側から戸惑いや不満の声も聞かれます
大石
どこまで言及すべきかは分かりませんが、新しい発注方法は、実はかなり矛盾に満ちているのです。予定価格がシールされているということは、本来は極めて重要なことなのです。しかし、シールされているがゆえに、それを剥がそうとする者もいて、その結果、入札妨害罪になってしまいます。したがって、それならばむしろオープンにしてしまおうというわけです。
これは手段と目的とが混同しており、私はこの仕組みも綻び始めていると考えるべきだと思っています。民間が民間で調達するように、我々も、予定価格を作るという仮想設計をやめて、その分は民間側の提案に基づく、民間競争の中で、判断していくというのが、本来のコスト構造改革であるのです。
私は、例えばトヨタがどうやって会社を成り立たせているのかを、もっと勉強しろと主張しています。もちろん、トヨタの中にも建築技術者はいて、工場の設計について図面書けと言われれば書けるでしょう。けれども、実際の調達は多分民間に競わせる形で行っているはずです。決して単価100%、労務100%の経費を調べた上で価格を組んでいるわけではないはずです。そうした仕組みを導入することによって、真に民間からの提案が生きてくる社会ができるのだと思います。
もちろん、会計法には公共工事について、そのように規定されていることは承知していますが、あの法律は、基本的には、官庁が物資を調達する仕組み全般を規定しています。それは、単に物を買う場合の仕組みを規定しているだけなのです。その原則は、単に安ければよいという発想でしかありません。
理由は、購入しようとする物資の品質が、あらかじめ市場で検証されているからです。市場がすでに検証しているので、購入前に一定の品質が保証されていることが判明します。従って、例えばソニーのある製品番号のテープレコーダーは、仕様さえ決まってしまえば、マーケットが品質を評価し、保証するので、あとはメーカーがその仕様に基づきながら、コスト管理をするなどして価格競争に専念すれば良いのです。
ところが、建設事業の場合は、常にゼロから作るわけですから、価格に合わせて品質が自由に調整できます。こういうものは、マーケットでは評価しません。マーケットが評価するのではなく、何十年もかけて日本の自然と利用者が評価するのです。地震が起こってみたら、予期に反してもろく、頼りにならないことが分かったり、大きい荷重がかかったときに、意外なほど沈下するなど、完成した後に評価が得られるものなのです。その違いが、会計法には十分に反映されていないのではないかと感じますね。
したがって、公共工事に代表されるような、品質ができあがった後に検証されていくようなものと、あらかじめ検証された品質のものを買うのとは、当然、仕組みが違って良いと思うのです
――メーカーが市場に商品を出荷することと、社会資本とはもともと基本が違うので、同じ観点で競争性を高めるには無理があると感じますね
大石
品質が事後に検証されるからこそ、それだけリスクもあるのです。激烈な価格競争をして、値を下げたとしても、そのために一定の品質以下のものを作り上げてしまったのでは社会資本としては困ります。製品ならば不良品として、マーケットで厳しく評価されますから、ある一定の品質は確保せざるを得ないのです。
公共事業は、価格を決めた後や、または加工した後で品質の検証を始めるものです。だから、そこに競争が働く場合には、まずフェアでイコールなルールの下で競争するとの大前提があり、競争原理は付随的にあくまでもあるものなのです。権利に義務が付随するように、競争には同条件という前提が、必ず付随しなければなりません。
だから私は、利益も出さず、赤字を承知で競争をするような状況は、厳に戒めなければなりません。ダンピングに対して、欧米諸国などは異常に神経質です。諸外国では、市場競争は、それを採用している国の文化だと主張しています。それに反して、私達の国は、文化ではなくただ競争すればよいというシステムだけはこぞって導入しますが、「一定の同条件」という要素が往々にして忘れられています。
英語には「ガリ勉」に相当する言葉はありませんが、日本では一般的に用いられますね。ガリ勉とは、人に負けないために徹夜で勉強をするなど、人がそれをしていないときまでも、時間と労力を割くことを意味しますが、日本人はそれを別におかしいこととは感じません。ところが、イギリスの文化には、人が寝ている時間に勉強することはフェアではないという発想があるのです。だからガリ勉に該当する言葉もなく、そうした行為は奨励されません。
もちろん、激烈な競争社会であるアメリカはその限りではありませんが、そうした思想から、私達の国は、そういう努力をする人を賞賛するわけです。
それから、特に私の友人に、国連機関に勤めている者もいますが、年次休暇を消化せずに残すわけです。そうすると強制的に休まされるそうです。人が休んでいるときにも、休まずに働いて良い成績を上げても、評価されないわけです。私達の国では、有給休暇を強制するなど前代未聞で、それを返上してまで働いている人間を評価しないというのは奇異に感じますが、つまりは文化が違うのです。
このようにして、前提となる文化が違うのに、競争という形だけを持ち込むから、非常にいびつなことが起きるのです。
――ヨーロッパでは、出し抜けや抜け駆けを姑息なものとしてとらえているわけですね
大石
そのために、条件をイコールにすることについては、非常に神経を使いますね。だからこそ、優秀な学生などは飛び級も許されるのです。私達の国では飛び級は許されませんね。高校は3年間を過ごしてからでなければ、大学受験が許されません。これは文化の違いとしか言いようがないものです。
そうしたことから、我々の調達の仕組みも変えていきます。民間の方々も、そのように変えていける体質へと変えて欲しいものです。
かくして、国づくりという国土に対する働きかけは、我が国がこれだけ厳しい条件を持っている国ですから、公共事業費がGDPの中で大きすぎると言われようとも、まだまだ続きます。そもそもGDPに比べて大きいのは当たり前です。地震があるかないかだけでも、1割5分や2割は高くなってしまうのは当然です。軟弱地盤があるとないとでも、また大きく違ってくるのですから、他国のGDPと比較して同水準におくべきだ、などというのは、国土の実質を知らない空疎な議論だと思います。そういう批判を我々も克服していきますが、建設産業に属している方々も声を大にして主張していただきたいと思います。

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