建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ1998年7月号〉

interview

道立体育センターを構想、白鳥大橋の実現に汗

財団法人北海道体育協会長 堂垣内尚弘 氏(元北海道知事、元北海道開発庁事務次官)

堂垣内尚弘 どうがきない・なおひろ
大正3年6月2日生まれ、札幌市出身
昭和13年3月  北海道帝国大学(現・北海道大学)工学部土木工学科卒
13年4月 海軍省建築局勤務
14年1月 兵役(21年5月復員)
21年7月 北海道土木部勤務
25年10月 経済安定本部へ出向
26年3月 経済安定本部建設交通局開発課課長補佐
27年10月 北海道開発庁へ出向
 北海道開発局道路課長
 北海道開発局道路計画課長
 北海道開発局室蘭開発建設部長
 北海道開発局建設部長
40年4月 北海道開発局長
7月 北海道開発庁事務次官
42年12月 北海学園大学教授(〜45年3月)
44年2月 北海道総合開発研究所長(現・北海道経済団体連合会)
46年4月 北海道知事初当選(〜58年4月 3期連続当選)
58年7月 北海学園大学教授(〜平成元年3月)
59年4月 堂垣内研究所所長(〜平成8年3月)
平成元年10月  学校法人東日本学園大学理事長
6年 4月 学校法人東日本学園理事長

【主な現職】
学校法人東日本学園名誉理事長(7年6月〜)
堂垣内事務所所長(8年4月〜)
北海道開発庁顧問(9年4月〜)
財団法人北海道体育協会会長

道知事を退いて15年になる堂垣内尚弘氏は、今年で85歳になるが、財団法人・北海道体育協会長をはじめ、北海道開発庁顧問、北海道交通安全協会長、ツール・ド・北海道理事長、北海道ラジオ体操連盟会長など数多くの公職をこなし、いまもかくしゃくとしている。
戦後、真駒内の進駐軍工事を皮切りに、道土木部、経済安定本部、道開発庁(局)勤務を通じ、道路技術者としても本道における社会資本の整備に残した足跡は大きい。現在、同氏が発想した道立体育センターの建設が着実に進み、同氏が実現に向けて奔走した室蘭地区白鳥大橋の開通が目前に迫っている。戦後から今日に至るまで本道の発展に寄与し、体育振興にも力を注ぐ堂垣内氏に、戦後の苦労話や最近の近況などを伺った。
――現在、札幌市豊平区で道立体育センターの建設工事が急ピッチで進められていますが、北海道体育協会会長としてはこの構想にどう関わってきましたか
堂垣内
現在、市内中島公園内にある道立スポーツセンターは、昭和46年、私が知事に就任した直後に設立したもので、競技力向上のためのスポーツセンターですが、北見市内にも造りました。
当時、道内約50の競技団体がありましたが、バラバラに事務所を構え、所在地もまちまちになっており、これではまずいので一ヶ所に集約しようとしたもので、全国でも珍しいものでした。しかし、この中島スポーツセンターは、最近では建物はもちろん、パーキング場も手狭になり、国際的な大会を開催できないこともあって、ようやく新しい体育センターに着手してもらったのです。
北海道教育委員会の手により、来年10月に完成の運びとなり、翌平成12年2月のこけら落としには、何か国際的なイベントを開催してはどうかと検討しているところです。
――室蘭市の白鳥大橋も完成が目前に迫っています
堂垣内
室蘭市内の白鳥大橋は、長年の構想だっただけに、私にとっても感慨深いものがあります。私自身、開発局で室蘭開発建設部の部長を務め、この計画に携わりましたが、袋小路になっている地元にとって、この橋は長年の悲願だったのです。
私も模型をつくらせて室蘭開発建設部内や少年科学館に展示したり、観光案内地図に掲載してもらうなど、実現に向けては様々な工夫をしたものです。

日本で最初にボブスレーに乗った男

――スポーツも、正式な競技として行う上では、土木・建築の確かな技術が必要になりますね
堂垣内
戦地から復員してすぐ21年の秋から、進駐軍の命令で藻岩山に札幌スキー場を建設しました。クリスマスまでに完成させよとの指令だったので、突貫工事で進めました。そこに設置された1,200mのスキーリフトは国内初で、併設されたトボガンコース(ボブスレー)と共に、スキー滑降のための2つのコース、25mジャンプ台、将校、下士官用各ロッジ等を総合的に配置しましたが、これが印象に残っていますね。(22年土木学会誌で発表)
ウィンタースポーツといえば、昭和13年のことですが、私が日本で初めてボブスレーのソリに乗ったことになりました。
昭和15年に札幌冬季オリンピックの開催が決まっていましたが、当時、日本ではまだボブスレーは行われていなかったのです。そこで、北大医学部の柳博士(故人)がドイツからボブスレー用のソリ一台を購入され、それを模倣して工学部の大賀博士(故人)が一台作り、円山の神社森にドイツからの技術者や北大関係者と財界の方々の力を借り、約1,000メートルのコースを整備したのです。
これに北大柔道部の学生が狩り出され、当時最上級生だった私が最初の試走にハンドルを握ることになりました。そうした経緯から、つい一昨年前まで日本ボブスレー・リュージュ連盟の会長を務めることになりましたが、現在は名誉会長をしております。
――官界に入ってから、建設行政と土木技術の変遷を見てこられましたね
堂垣内
当初、私は内務省に配属される予定でしたが、海軍省が全国の帝大土木学生から一人採用するというので、そちらに技術者として就職しました。しかしその後、徴兵検査に合格し、陸軍に7年半ほど従軍することになったので、東京で1年間、海軍本省に勤務した後、陸軍航空兵科の幹部候補生(昭和18年)となり、所沢陸軍航空整備学校を卒業と同時に同校教育隊の区隊長、中隊長をしましたが、ある日上官と口論し、翌日南方行きを命じられました。南方には3年余りいて、終戦。翌年の21年にインドネシア国セレベス島から復員しました。
札幌に疎開していた家族のもとに帰ると、進駐軍が真駒内に駐屯し始めており、在日米軍施設の建設にてんてこ舞いの状態でした。そのため、手伝って欲しいと要請されて道庁に入りました。
道庁では、直ちに進駐軍キャンプ内工事に従事したあと、道内46ヶ所あった出張所の筆頭である札幌出張所長も務めましたが、その間、豊平川で、戦後道内初の永久橋である東橋、短期間で設計を完了させた砂川大橋、木橋の吊橋としてトラックも通れる全長154mの月形橋の設計監督をしたことも忘れられません。この月形橋は、土木学会で発表しましたが、施工において、既に過去2回失敗していました。大体、石狩川に木造トラス橋を架けることは無茶でした。流氷で杭が抜かれてしまうからです。そこで、名誉回復のためと称し、私が任命されることになりました。そこで私は、木造でも吊り橋という手法を採用したのです。全長154mもあり、トラックの通れる吊り橋木橋はこれが全国で2つ目であったでしょう。私としては、この手法で1年ももてば良いと言われたものを、7年ももち続けることができました。このほか、どうやら私は工事運が良いようで、他の人が失敗した工事を成功させた幸運に恵まれました。
その後、特殊設計課長、これは道土木部としては橋梁係の初めですが、この係長から25年より27年まで経済安定本部に出向しました。ここでは全国の総合開発計画に参画し、特に建設事業に関わる調査費の予算査定に携わりました。

経済安定本部で特殊土壌法の素案づくり

――当時の技術は、今日のものとはかなり違っていたのでは
堂垣内
21年に真駒内で設計監督をしていたときのことですが、除雪には国産の旧陸軍の飛行場用除雪機を使用しており、土工用重機等は代用燃料を使用していたので、転圧機等は時々圧力が下がって止まってしまうという状況、さらに国産のブルドーザーやグレーダーはアメリカのキャタピラ製のものとは性能が格段に劣っていました。このため経済安定本部課長補佐時代、建設用機械の改造、能力向上のための調査費をつけることに成功しました。
また、私自身は北海道のほか九州についても担当させてもらい、鹿児島県、宮崎県等にあるシラス、ボラ、ユラ等による災害復旧工事や防災工事を担当したりしましたが、そのとき農林、建設、運輸、林野等各省庁の課長補佐が集まってもらい、これまでの工法の洗い直しを初め、種々改善方を検討しました。このため私自身も九州に10回も行きました。
この九州地方の仕事で最も印象に残っているのは、安定本部から道開発局に戻るまで『特殊土壌地帯災害防除農業振興臨時措置法』(通称・特殊土壌法)の原案作成の責任者を務めたことです。これは技術屋が作った法律ということで、一寸評判になったりしました。このことや、私の土木屋または、行政官としての現場、経歴や北海道の道路の歴史をまとめたことで、昭和63年日本土木学会から功績賞をいただきましたが、これは道出身者として10年ぶりで二人目でした。
――そして、後に北海道から経済安定本部、経済審議庁、北海道開発庁へと移籍したのですね
堂垣内
昭和25年に北海道開発法が施行されましたが、当時私は経済安定技官で、昭和27年に帰道したとき、北海道開発技官となり、開発庁職員となりました。
――開発事務次官に就任した時は、ちょっとしたハプニングもあったようですね
堂垣内
米軍の援助を得て施工した国道苫前-士別線の開道式への途中、留萌開発建設部で開発局長として着任挨拶をしている最中に事務次官辞令の電報が届きました。しかし、翌日この道路の竣工式が控えていたので、1日遅れて上京したのですが、大臣からは「閣議決定の日にいないとはけしからん」と怒られてしまいましてね。(苦笑)
新旧交代の辞令交付を、別々に行うのは前代未聞のことだったようです。
――当時の北海道はどんな状況でしたか
堂垣内
私が開発次官当時の北海道は、冷害や災害、さらに外国との国際競争に負けて石炭、ハッカ、石綿などの産業が急に振るわなくなるなど、暗いニュースが多かったのです。
そこで何とか明るさを取り戻そうと、北方圏構想を打ち出し、まず事務的に『昭和60年北海道のビジョン』を発表し、国際交流の項目を加えました。積雪寒冷地域間の交流はもちろん、その一環が新千歳空港であり、苫小牧開発であり、さらに新幹線誘致も視野に入れました。
この『北海道のビジョン』が、46年にスタートした第三期北海道総合開発計画に発展するわけですが、その46年は私が道知事選に当選した年でした。
――最近は、公共事業に対して厳しい批判が聞かれるようになりました。しかし、拓銀の倒産の影響は深刻で、北海道経済は崖縁にあり、特に公共事業への依存度が高いという地域性を考えると、再生への道が遠のくことが懸念されています
堂垣内
公共事業は国民生活の最大の基礎です。最近の公共事業への批判を聞いていると、「公共事業をバカにするな」と言いたくなりますね。おそらく生活が豊かになり、困苦欠乏の時代ではなくなったから、言うのでしょう。
公共事業の内容をチェックすることは必要ですが、一まとめにして公共事業不要論は、特に北海道においては論外と思います。
今日、北海道の苫小牧東部工業基地は、既に港湾整備は完了しており、地方にとっては日本一のオイル基地として役割を果たしています。また発電所も30万キロワットの発電量を更に60万、更に100万キロワットにパワーアップしようとしています。
士別市には、世界一と言われる「トヨタ」の寒冷向き試験場があります。北海道の再生までは、あと一息なのです。
私の事務所は昭和天皇崇敬会の事務局を兼ねていましたが、私が北海道知事だった頃、昭和天皇は道内の天候と作柄を何時もお気にかけられ、決まって「堂垣内北海道知事、北海道の天候は、作物の状況はどうか」とお尋ねになられました。それほど北海道をわが国の食糧供給基地として重要視しておられたということでしょう。
私としては、昭和天皇が2度好んでお泊まりになられた支笏湖畔に天皇家の御用邸を建ててもらいたいと思っています。

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