筆者が野蒜港のことを知ったのは、今から2年ほど前に、土木学会創立80周年記念出版「日本土木史探訪 人は何を築いてきたか」の中に「大久保利通の夢[野蒜築港]」の記事を発見した時だった。以前から関東以西に比べて、関東以北は基幹となる交通基盤整備が後回しになっているのではという懸念を持っていたが、この記事を読み、野蒜港がもし現存していたならば、そんな懸念など払拭されていたのではと残念な思いに駆られたものである。そんな思いもあって、旧野蒜港の所在地である宮城県鳴瀬町に直接お願いして関係資料を送っていただいた。その資料を読めば読むほど大久保利通の構想が実現しなかったことを惜しむ気持ちが大きくなった。
図−15 宮城県略図 |
ところで、そもそも野蒜港とはどんな港湾計画であったのか、先の記事や宮城県鳴瀬町誌などを参考に概要を紹介する。大久保は1878(明治11)年3月、不平士族が多く開発が遅れていた東北地方に7つの大事業を提言し、野蒜港を起点とする大運河構想の効果を説いたという。同年4月には、野蒜築港を含む各種事業に起業公債の発行が決定されるなど急ピッチで進められていた矢先の5月14日、大久保は刺客の凶刃により、48年の生涯を閉じた。大久保の遺志は、自身が創設し強化した内務省に引き継がれ、大久保暗殺直後の7月に着工し、1882(明治15)年10月には第1期工事が完成し突堤落成式が盛大に行われた。しかし、外港防波堤がなかったため、1884(明治17)年9月、折りからの台風に伴う暴風雨により、突堤が損壊し港の機能を失うに至った。内務省は復興のための調査を行ったが、長大な外港防波堤の建設に膨大な費用を要することから、翌明治18年再建を断念し、我が国最初の近代的築港事業は不幸にも挫折したのであった。
当時、日本の中心的な輸出品である絹糸を一日でも早くアメリカに輸送するという国際貿易上の政策に基づいて野蒜築港が計画されたと言われている。すなわち、北日本がアメリカに近いということに明治の大指導者は着目していたのである。
図−16 野蒜築港計画の概要図(出典:小川博三「日本土木史概説」共立出版梶j |
横浜港が野蒜港に遅れること11年の1889(明治22)年に着工していることを思えば、歴史に“もし”は禁句だが、やはり、野蒜港が外港防波堤も備えた安全な港として再建され存続していれば、北太平洋航路の重要な港となっているばかりでなく、東北地方の位置付けさえ変えていたのではと思わずにはいられない。すなわち、横浜、神戸が日本の2大国際港湾となり、東京〜阪神間が経済の中心地帯をなすという現在の我が国の国土構造が、北日本に国際港湾“野蒜港”があることにより、異なる姿となっていた可能性が大きいからである。
鳴瀬町からの資料によると、我が国最初の近代的築港事業であった野蒜港を地元の歴史的遺産として現代によみがえらせるプロジェクトが計画されている。そこには「明治の初期、鳴瀬川河口の野蒜の地に国際貿易港を建設しようとした壮大な企図とドラマがあった。この驚きを共有し、東北地方振興の夢を現代に伝える場を形成する」とあり、郷土の先人の偉業を顕彰し、明治のパイオニア精神を現代に伝えるレクリエーション・パークの建設が計画されている。是非その計画の成功を願うとともに、北日本の国際地理的位置を活かそうとした明治の壮大な企図そのものを現代に復元する計画が立ち上がることを願うものである。