(前号から続く)
2月7日函館で応用力学フォ−ラム「土木工学における応用力学教育」が開かれ、小生も話題提供者の一人として参加した。大学を離れて20数年、今や仕事で応用力学らしきものに接することがほとんどなくなった身にとっては場違いとも思ったが、大学教育における最新の問題を捉えるのに丁度よい機会と思い、私見を披露しつつ諸先生の話をお聞きした。
限られた時間の中で教えることが多すぎる、昔に比べ学生数が多くなり過ぎた、学生のやる気がない、卒業生の基礎学力がない等々、土木の将来に不安を感じざるを得ない話が多くあった。そして、受験教育の弊害を最終教育機関である大学が一身に背負わなければならない宿命がそこににじみ出ており、先生方の苦労に同情せざるを得なかった。
この根深い問題を一朝一夕に解決することは生易しいことではないが、少なくとも土木の魅力をprし、高めることが最重要であると思っている。人間の本性として、異性にしても、趣味にしても、魅力を感じるものに対しては積極的になるものである。
昭和30年代の初期大量建設時代においては、技術も成長期であり、担当技術者の情熱や個性が建設した作品に表われていた。それを子供時代に見てきた我々の世代では、土木は国の発展を支える大きなものづくりをする魅力ある学問・職業であった。その後も続く大量建設時代を円滑かつ効率的に進めるため、必然的に経験豊富な先輩技術者により基準化・標準化が広範に行われ、それなりに大きな効果を与えた。しかし、一方では仕事の多くは基準に従うという経験に倣うだけとなり、新しいことに取り組む意欲を総体的には失わせることになった。それを子供時代に見てきた世代にとって、土木を魅力あるものとは思えなかったのではないだろうか。その現われが土木工学科の不人気となり、それを挽回するため、土木改名論が高まり、いくつかの大学では学科名を変更するなど、その時々で真剣な議論と実践がなされたが、改善の程度は正直のところ、それほどではないというのが先生方から受けた印象である。その中で、3年前放送されたnhkの「テクノパワ−」が土木の有効なpr用教材になっているらしい。
日本自体が高度経済成長や欧米先進国へのキャッチアップを目標とする時代は終わり、成長するアジアに急追されるようになった。それに合わせるように、これまでの画一化した大量生産・大量消費の時代から、個々人がそれぞれのライフスタイルに合わせて行動するようになり、地域もそれぞれの歴史・風土・伝統を活かす個性ある地域づくりを指向するようになってきた。新幹線の駅がどこでも同じような外観というような時代は終わったのである。むしろ豊かでない時代に個性ある優れた公共建造物が多かったことに思いを致すべきである。
土木は社会の変化と密接に関係するとともに、社会に対して時間的・空間的に圧倒的な深さと広がりを持って影響を与えることについては比肩するものがない。10年20年前には、自然環境とか景観を今ほど重視してはいなかった。また、阪神大震災によって耐震設計や交通ネットワ−クのリダンダンシ−、都市計画の在り方までが改めて見直されるようになった。土木工学科の先生にとっては、いくら時間があっても足りないほど教えることが増えている。いみじくもフォ−ラムの会場に来ていた日本大学の能町純雄教授が、昔と比べ構造力学だけでも教える範囲が大きく広がっていると発言されていた。
私は、この土木の担当範囲が拡大し続けることについては、悩むよりは喜ぶべきことであると思っている。もし逆に、成熟して担当範囲の拡大が限られてしまった分野では、それこそ重箱の隅をつつくような研究・技術開発ばかりとなり、いきおい魅力を失うことになる。土木でも重箱の隅をつつくような研究・技術開発がない訳ではないが、社会との新たな関わりの中で新鮮なテ−マが続々と出ていることは間違いない。ただ、見方を変えれば担当範囲が拡大したときにそれを適切にフォロ−することが出来るかが問題となる。いつまでも古典的な区分にこだわって新しいことをなおざりにすれば、その報いは自らに降りかかる。
土木の拡大性・成長性を上手にprすれば、その魅力は十分伝わるはずである。自然環境、動植物生態学、シビックデザイン、住民合意・国民合意の社会学、情報化の活用、大災害への対応、さらには個人的に関心のある新たな海峡横断プロジェクトなど、土木が取り組むべき課題は数多くある。これらの解決・実現は現世代だけでなく、子や孫という次世代まで関わらなければならないが、それ故にこそ、土木の存在意義があるのではないだろうか。土木は永久拡大が運命づけられている魅力にあふれた分野なのである。
一見経済的には第1級のレベルに達したかのように思える我が国であるが、生活の基礎的指標となるとまだまだ十分ではない。それが、豊かさを感じられない我が国の現状の一因である。真の生活大国実現のためには、高齢化社会の到来が間近いだけにここ10年から15年が正念場となる。折しも2月12日司馬遼太郎氏がこの国の行く末を案じつつ逝去された。土木はまさに国の行く末に関わるものであり、せめて土木屋の端呉れとして出来る限りのことはしなければならないという思いに駆られながら、司馬氏の訃報を見ていた。
21世紀を迎える当たって、今こそ未来を志向した土木を標榜し、国民との共同歩調の下に確実に実行することが求められている。