衛星放送でアメリカのプロスポーツ中継を見る機会が増えた。プレーのレベルもさりながら、観客のマナーに感心することが多い。プレーそっちのけで鳴り物入りで大騒ぎする日本の野球応援などは、ノンフィクション作家でスポーツコメンテイターの佐瀬稔氏ならずともやり過ぎと言わざるを得ない。じっくり観戦したい大多数の観客の気持ちなどまったく考えていないのが、日本のスポーツ応援の姿である。
しかしそれはまだいい。私がここで取り上げたいのは、アメリカのスポーツ中継中に不心得なファンが行う、たとえばグラウンドに飛び降りて走り回るとか、ゴルフコースに飛び出して池を泳ぐといった不届きなパフォーマンスに対し、テレビカメラが意識して映さないようにしていることである。日本人のアナウンサーが気付いてコメントしても画面にはその光景が映っていないことが再三あった。いやテレビだけでなく、観客もブーイングで拒絶反応を明確に示す。同じことが日本で起これば、多分逆に選手そっちのけで悪ふざけの観客を映し続けるのではないかと思う。いや思うのではなく、現にそのような光景をしばしば見せられてきた。人の迷惑など顧みずに、ただテレビに映ることを快感とだけ思う人は国を問わずある一定の割合で存在することと思う。違うのはそれに対する映す側と見る側の対応である。面白がって映せば映すほど、いつか自分もと思う人が際限なく続く。今年の選抜高校野球の開会式でも入場前の選手を映す場面があったが、やはりテレビに映りたい一心でインタビューを受けている選手の後ろで派手なパフォーマンスをする高校球児がいた。高校の卒業式に、奇抜な衣装で出席する生徒が後を絶たないのも、例年のようにテレビや新聞が競って報道するからではないだろうか。目立てばよい、面白ければよい、ともかく視聴率が高ければ中身の質は二の次といった風潮が蔓延しているように思うのは私だけであろうか。
評論家の西部邁氏がマスコミを第四の権力ではなく第一権力とする(参考文献(1))のもその余りにも大きい影響力のせいである。そしてこの第一権力に対して牽制する勢力は今のところ表面上は見当たらない(ただし、パソコン通信などにひそかにマスコミ報道に対する批評が載っている)。先日の神戸の小学生殺害事件の容疑者逮捕の時にも気になるテレビ画面があった。容疑者が中学3年生という心晴れない報道を伝える現地警察署前のアナウンサーの回りに、深夜にも関わらず大勢の中高校生と思われる若者が取り巻き、押し合いへし合いしながらテレビに映ろうとする姿が流された。それも時間の経過とともに人数が増えていった。恐らくテレビ中継を見て駆けつけたのであろう。中には携帯電話で自分がテレビに映っているかどうかを確認しているように見える者までいた。先にも述べたように、事の次第に関わらず不届きな行動を取る者が一定の割合で存在することは仕方がない。問題はそれを助長するかのように報道する側が映していることと、それを自覚しているかどうかである。ちょっとでも気の利いた人間がいれば、アナウンサーの声だけにするということも出来るはずである。翌日裁判所へ行くため車に乗る容疑者を映そうとするテレビにまたまた呆れてしまった。そもそも警察官の完全警護体制のためその姿を映せるアングルは容易には見つからないはずなのだが、ビックリしたのは車の下を通して足元だけを映したテレビ局がいくつもあったことである。その後この事件を話題にするたびに繰り返し足元を映した場面を流していた。そんな画面を期待する人がどれだけいるのだろうか。中学3年生という事情を考えれば、むしろ映さないという自制心を働かせて欲しいものだ。顔写真を掲載したという写真週刊誌に至っては言語道断である。
逆に映して欲しい不届きな光景を映していないということがあった。4年前の北海道南西沖地震の時である。当時函館に勤務していて震災復旧に当たっていたのだが、最大の被災地奥尻島に行った時、島内をrv車で回りながら写真を撮っている、どう見ても被災地見物をしているとしか見えないグループが少なからずいた。狭い島内で見物をしたらどうなるのかという思いがそれらのグループにはないのかと憤慨やるせない気持ちになったものである。そして、そのような不届きな行動を取る者がいることをどのテレビ局も映していないことにも気が付いた。
先日シカゴに住む日本人の小学生が、日本のテレビcmを見て軽蔑したような薄笑いを浮かべていた。アメリカでは見られない下品なシーンが流されていたからである。我ながら日頃見慣れているせいか、気にもしないで見ていたシーンであったが、改めて指摘されると彼の感覚の方がまともなことに気付かされ、それこそカルチャーショックを受けた。そもそも恥の文化が我が国の良き伝統であったはずなのに、その伝統の崩壊前夜というような現象が多すぎる。
【参考文献】
今回は本来のテーマとは異質なことを書いてしまった。このように思うのも年取ったせいかもしれないが、気になることはやはり言っておきたい。チリも積もれば山となるように、悪い影響が後世に拡大して蓄積するようなことは是非避けたいという思いだけは表明しておきたい。いつの日か悪ふざけが起こってもそれを映さない、派手なパフォーマンス目当てに卒業式を取材することがない、そのような節度をわきまえた国になる(戻るというべきか)ことを願う。
(1)「国柄の思想」西部邁、徳間書店