建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2008年12月号〉

interview

「ものづくり産業」の集積地と物流拠点都市(前編)

――市政施行60周年と日本を代表する海の玄関「苫小牧港」の役割

苫小牧市長 岩倉 博文氏

岩倉 博文 いわくら・ひろふみ
昭和25年1月15日生まれ
昭和47年3月 立教大学経済学部経営学科
昭和49年1月 岩倉組土建(株)入社(昭和64年1月岩倉建設(株)へ社名変更)
平成 5年12月 岩倉建設(株)取締役
平成12年 4月 岩倉建設(株)顧問
平成12年 6月 衆議院議員
平成15年10月 岩倉建設(株)顧問
平成18年 7月 苫小牧市長(1期)

 06年に辞任に追い込まれた前市長の後を受け、元市長との一騎打ちを制して苫小牧市長に就任した岩倉博文氏。岩倉市政は1期目の折り返しに入り、いよいよ正念場を迎えた。自動車産業やバイオエタノールプラントなどの企業立地が順調で岩倉市政にとって追い風が吹いているが、苫小牧市の台所事情は「火の車」のようで、最大の課題が財政再建という。新総合計画では苫小牧の理想の都市像を「人間環境都市」と位置付けるとともに、苫小牧港と新千歳空港の利点を生かし、「ものづくり産業」の集積と物流拠点として北海道経済の自立を担う「たくましい苫小牧」に果敢に挑戦している。苫小牧港の生みの親といわれる初代・岩倉巻治の孫にあたる岩倉市長は生粋の苫小牧っ子。今年で市政施行60周年を迎えた苫小牧市の舵取りに取り組むか、岩倉市長に市政運営のポイントなどを聞いた。
――市長に就任してから2年が経過し、任期の後半に入りました。これまでの2年間を振り返って率直な感想からお伺いします
岩倉 当初に予定していたこと、あるいは市長選で市民に訴えた公約の取り組み状況、市政を取り巻く時代の変化等、2年前に比べると想定内のことも、想定外のこともありますが、市政については順調に推移しているので、今後も引き続き緊張感を持って任期を全うしたいと思っています。
――平成20年度予算は市長の思い描いたとおりの編成ができましたか
岩倉 市長選でも公約したように、財政健全化の道筋を分かりやすく市民のみなさんにお示しすることが1期目の最重要施策です。昨年2月に公表し、19年度から財政健全化計画がスタートしました。新しい計画では経常収支比率、公債費比率、実質公債費比率という財政の実態を的確に反映する3つの指標の改善目標を定めました。1年目は3つの指標とも目標をクリアし、第一歩を踏み出すことができました。これを受けて20年度の予算編成を行ったところです。  国の財政状況が非常に厳しいので、本市への地方交付税等も減額される中、市税収入は景気動向に左右されることもあり、21年度に向けてはさらに厳しい財政運営を覚悟しています。苫小牧市は発展期から税収が比較的多い半面、歳出構造も大きいという特色があり、まだまだ厳しい状況が続くと予想しています。  平成8年度に56億円強あった財政調整基金等(自治体の貯金)が、私が市長に就任した際にはほぼ底をついていた状態でした。言葉は悪いですが、土俵際の戦いがまだしばらく続くという意味では、市民の皆さんに数値を示しつつ財政再建に取り組んでいく決意です。 昨年5月には国が全国の地方自治体を4つの財政指標で評価することになったので、3プラス4の7つの指標が公表されることになります。
▲苫小牧 中心市街地
──財政再建の一方で、円高不況と原油高騰などにより、市民はこれまで以上に内需拡大を伴う行政サービスを必要としているのでは
岩倉 そのため、まちづくり事業にも手を抜くことは出来ず、公共投資は今年度も実施してきています。福祉医療政策の分野では、旧市立総合病院南棟の改修築に着手しました。これは高齢者の健康増進、子育て支援、乳幼児健診、教育研修、研究といった多機能の複合施設として、来年度にオープンの予定です。  一方、学校教育のあり方も近年は問題提起されていますが、施設面でも教育効果を考慮した青翔中学校を新築しており、来年度の新学期に合わせて開校します。  近年は異常気象などが見られるようになりましたが、市民の安全を守る消防署の錦岡出張所改築にも着手しています。これは旧錦岡公民館の跡地へ移転します。市民生活の利便のためには、市営住宅明徳団地の建て替えも継続しています。さらに交通の拠り所となる道の駅も建設中で、今年は用地取得を進めながら、本体工事にも取りかかっています。
――国会議員を経験されたことで、国の動向には非常に敏感じゃないですか
岩倉 1期しか務めていませんが、情報ネットワークや課題解決の行動のポイントなど、市長として市政運営にプラスの経験を得たと思います。
――苫小牧市は今年、市政施行60周年を迎えました。昭和23年の時点では、今日の工業集積都市になるとは誰も予想しなかったと思います
岩倉 23年に町から市に昇格した際の人口は、3万3千人でした。60年経ち、振り返ってみて、これから苫小牧が北海道で果たす役割を考えると、「苫小牧港」を抜きには考えられません。23年に苫小牧港の建設が国会で承認され、最初に付いた国の予算が30万円、道の予算が90万円でした。この時は本格着工前の試験突堤工事でした。  当時、祖父の初代岩倉巻次は商工会議所会頭、苫小牧工業港促進期成会長等を務めていました。敗戦後の復興初期の頃ですから、政治の力も借りながら苫小牧の官民を挙げて大変なエネルギーを注ぎ、実現にこぎ付けた一大国家プロジェクトでした。国の予算だけでは不十分だったため、地元の経済界などからも集めた浄財は230万円に達したと聞いています。苫小牧港はよく「政治の港」といわれます。もちろん政治の力もあったでしょうが、その起点は決してそうではなかったと思います。多額の浄財を集めた地元の建設促進運動が本格着工につながったのです。  何しろ、砂浜に大規模な掘り込み式の港湾をつくるのは、日本はもとより世界でも初めてのことでした。それが、今日では北海道の海上物流の50%を担うまでに成長しています。近くに室蘭港があり、小樽港も出来ていた時代に、砂浜に掘り込み式の港湾を計画した当時の人々の苦労、決断には頭の下がる思いです。
 (以下次号)

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