建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2005年4月号〉

特別講演

国土交通副大臣 参議院議員・岩井國臣氏特別講演要旨

(社)空知建設業協会主催 地域再生フォーラムU 「地域再生と公共事業」

1962年 京都大学院修士課程修了
建設省に入省中部地方建設局勤務
1977年 関東地方建設局京浜工事事務所長
1983年 大臣官房技術調査室長
1986年 九州地方建設局河川部長
1988年 河川局河川計画課長
1989年 中国地方建設局長
1992年 河川局長
1993年 河川環境管理財団理事長
1995年7月 参議院議員初当選(自由民主党比例代表選出)
2001年1月 国土交通大臣政務官
2001年7月 参議院議員再選(自由民主党比例代表選出)
2004年9月 国土交通副大臣
著 書
『劇場国家にっぽん−わが国の姿(かたち)のあるべきようは−』/新公論社
『桃源雲情−地域づくりの哲学と実践−』/新公論社

本日は、多くの皆さんにお集まり頂き、こうした場を設けて頂いた空知建設業協会にも御礼を申し上げます。今日の世の中は、大変めまぐるしく変動しており、建設事業に関わる私たちも、大変厳しい時代に直面し、これからどうなるのか不安な時代です。直面している課題はたくさんあり、それには短期的な課題や中長期的な課題がありますが、今回は中長期的な問題についてお話したいと思います。
中長期的と言えば、10年後、あるいは20年後を見通すことになりますが、10年後、20年後に対策をすれば良いということではなく、先を見つめつつも、今現在の地域、空知を見直さなければなりません。日常の行動を左右する意味では、極めて今日的な課題にも触れなければなりませんが、反面、遠い先の目標に向かって、私たちはどう振る舞うべきかについての話になります。

世界を視野にとらえたコミュニティ活動
私に先だって講演された桃知先生のお話は、大変、学問的で参考になりました。その中で「ボロメオの結び目」、また「メビウスの帯」の話がありました。これは哲学者・中沢新一氏もよく用いる用例で、「ボロメオの結び目」は、三つの輪の一箇所をハサミで切ると、三つの輪がバラバラになるというトリックで、二つでは決してそうならないものです。逆に言えば、バラバラだった三つの輪が、結び方によっては合体し離れないというものです。一方、「メビウスの帯」は、細長い帯を一度ねじってから両端を接続したもので、そこに例えばアリを歩かせると、表を歩いているうちにいつしか裏に行くことになるもので、表と裏の区別がないのが「メビウスの帯」と言われます。
これをわかりやすく日常に喩えるなら、「ボロメオの結び目」に見る三つの輪は、いわば家庭と仕事場、コミュニティに相当し、本来はバラバラかも知れませんが、結び方によっては確固たる連携ができるということだと考えます。桃知先生の話にあった通り、グローバルに考え、ローカルに活動するという観点から言えば、やはり社会のことを考え、世界のことを考えつつ、この空知地域でどのような活動をするのかを考えることが大切だと思います。
今後はコミュニティの時代になっていくのではないかと、私は展望していますが、一方では世界を考えながらも地域で活動していくわけです。その中心となり、ベースとなるのはあくまでもローカルです。そのローカルこそがコミュニティです。
そこで、国際社会を概観すると、世界はアメリカの一強主義で今日に至り、そして今後も歩んでいくという情勢で、まさに傍若無人とも言い得るような力でアメリカ一極世界へと動いています。そうしてアメリカの世界化が進んでいる情勢下で、世情はどんな時代を迎えるかといえば、やはりインターネットを主力としたコミュニティの時代になってくるのではないかと考えます。
国際社会は、イラク情勢が最も深刻な課題となっていますが、おそらく今後の動向としては、隣国のシリア、イランの国境をアメリカの精鋭部隊によって封鎖されつつ、テロ集団は殲滅(せんめつ)されるのではないかと推測される一方で、むしろ第二のベトナムのような結果になるのではないかとの見解もあります。
元NHKのアナウンサーであった日高義樹氏が、1月31日に、『二〇〇五年、ブッシュは何をやるのか』という著作を刊行しました。日高氏によると、空爆時は最新の兵力によって攻撃し、あっという間にイラクを掌握したのに、治安確立の段階では、テロを甘く見て、二流の州兵に治安を任せたために、泥沼の様相に至った・・・というようなことらしいです。さすがに大統領選挙が終わってから、これではなるまいと、ようやく精鋭部隊を動員している最中であると述べています。したがって、テロ集団は早晩殲滅されると同時に、シリアとイランの国境封鎖が行われるのではないかと思われます。そして、ベトナム戦争のときには、中国がベトナムの後ろ盾となって様々に支援しましたが、今回のイラク問題では離れており、支援はまずあり得ないと、日高氏は著述しています。
周知の通り、中国も現在は軍拡中で、かなり軍備に力を入れていますが、一方ではアメリカのミサイル潜水艦が、太平洋の北東をパトロール中です。ミサイル潜水艦ペンシルバニア、ミサイル潜水艦h・n・ジャクソン、ミサイル潜水艦ケンタッキー、ミサイル潜水艦アラバマ、ミサイル潜水艦アラスカ、ミサイル潜水艦ネバダ、ミサイル潜水艦ジョージア、ミサイル潜水艦ネブラスカルと、その数は八艦に及び、それぞれに240発の核弾頭ミサイルを装備し、中国に狙いを定めているのです。人工衛星でかなり精密に中国内の軍事拠点を撮影し、それを核弾頭に埋め込まれたicに記憶させてあるようです。発射されたミサイルは、移動中に地形をセンサーで感知し、標的に到着する際には1メートルのズレもないほどの精度で命中するとのことです。日高氏は、この秀でた軍事力が、アメリカの一人勝ちの基盤にあると指摘しています。
昨年の2月に、ラムズフェルド国防長官が「10・30・30」と呼ばれる新しい戦略を発表し、陸海空の三軍に緊急指令通達を行ったと言われています。「10・30・30」とは、いかなる場所にもミサイル潜水艦をはじめ、その他の兵力を10日以内に集結させ、30日間で敵国を殲滅し、残る30日で、新体制の発足準備を終えるという、驚異的な兵力、体制を構築するもので、これにはロシアはもとより中国その他、どの国家も及ばないとのことです。かくして極端に言えば、世界はアメリカの支配下で動いていると言えるでしょう。
しかし、中にはイスラム圏の人々が、アメリカ軍、あるいはアメリカという国、あるいはアメリカ人に対して、どんな思いを抱いているのかを気遣うアメリカ国民も多いわけです。そこで、問題はアメリカ人自身が相手の立場に立って考えることができるのかどうかにあると思います。ブッシュ大統領と側近の考えとしては、中東のテロ集団を殲滅することによって、イスラム社会におけるテロとの連携プレーにメスを入れ、その関係を断ち切ることで世界全体の安定を図ることを前提としていますが、果たしてそうした力による政策で、世界、中近東に平和がもたらされるのかどうか、かなり熟慮すべき問題ではないかと思います。
私個人のスタンスとしては親米派で、アメリカという国に対しては信頼感を持っており、今後とも日米の同盟関係を基軸に日本の外交を進めなければならないと考えています。しかし、現在、行われているような力の政策で中近東に平和は来るのか、あるいは日本を含めた東アジアに平和が来るのか、世界に平和が来るのかと考えると、大いに疑問を感じます。
では、世界平和はどのようなかたちで実現するのでしょうか。完全なるアメリカ支配というのは言い過ぎかも知れませんが、アメリカの軍事力の下で、それぞれの国が、平和を謳歌していけるのかどうか、この点を私は考える必要があると思います。
「後戸(うしろど)の神」ニッポン
そこで、先の桃知先生の話にもあった通り、「後戸の神」という概念が重要になってきます。これは、天台宗の本堂に祭られているご本尊の裏に祭られたマダラ神という神のことです。ご本尊は表向きの礼拝の対象ですが、「後戸の神」の前にあっては建前を排し、本音をさらけだして御利益にあずかるという慣わしです。
私は、アメリカが世界で唯一の超大国として、軍事的にも経済的にもリードしていくかたちでは、決して世界は平和にならないと考えており、日本がアメリカの「後戸の神」として、世界平和にどう貢献するかが問題になると考えています。
かつて、私は建設省に長く勤務し、中国地方建設局長を勤めたこともありました。広島は周知の通り、世界で最初に原子爆弾の洗礼を受けた都市で、そのシンボルとして今も当時のままに残されている原爆ドームは、建設省の庁舎でした。その当時は内務省広島土木出張所という名称です。そこで当時、勤務していた人々が、一瞬にして亡くなるわけです。毎年8月6日になると、ささやかながらも局長主催の慰霊祭を実施しています。私も三年間、局長を勤めたので、私が主催の慰霊祭を三回、行ってきました。慰霊祭とは言っても、大規模なものは平和記念公園で行われ、総理なども出席しますが、私たちは爆心地に最も近い原爆ドームでささやかに行ってきました。被爆当時の職員も、今はかなり高齢となっていますが、中にはまだご健在の方もおられ、ご遺族ともどもそうした関係者にご案内し、現職の幹部も含めて亡くなった方々の霊を慰めつつ、平和な国土建設、平和な国づくりに邁進することを、あらためて誓うわけです。
そこで平和な国づくり、平和な国土づくりとは何かを、嫌が上にも考えさせられました。
それ以来、私は平和の原理とは何かを、真剣に考え続けているわけです。それを踏まえて、今後の21世紀は、日本が「後戸の神」として、国際的に活躍していかなければならないという結論に至ったわけです。
多様性を認める多神教的モラル
キリスト教原理主義にしろ、イスラムの原理主義にしてもそうですが、一神教の原理主義というのは、やはりきついものがあると感じます。多神教が良いとは言いませんが、日本は多神教で、神仏併合の時期もありました。私の考えでは、日本の歴史・伝統文化は、違いというものを認める文化ではないかと思います。
共生、コミュニケーション、連携、そしてインターネットがそれを促進するネットワークの時代です。共生という言葉は、生物学でもよく用いられる言葉で、相手を滅ぼすことがない限りは、多少は傷つけあっても良いという、食物連鎖を容認する生物界の原理です。
余談ですが、私は京都大学の山岳部に所属していました。かつて北海道の山地を随分と歩き、当時の北大山岳部の人々にもお世話になったものです。その京大山岳部の諸先輩には、優秀な人材も多く、南極越冬隊で有名になった西堀氏、フランス文学の桑原武雄氏など様々な人材がおられますが、中でもボスといえば今西錦司氏です。
今西氏が提唱している理論に「棲み分け論」というものがあります。彼は学生の頃、京都の賀茂川の石っころをひっくり返して、かげろうの幼虫の研究をしていました。そのときに、その石っころの裏にいるかげろうの幼虫のように、非常にか細い生物でもおっとどっこい生きているのだという現実を、ふと痛感したとのことです。この世は、決して力の強い生物だけが生き残っているわけではないのです。
私たちは、小学生の頃、または中学生の頃から、進化論と言えば、ダーウィンの進化論しか学習しませんでした。ダーウィンの進化論は、弱肉強食原理で、強い者が勝って当たり前の世界観です。そのため、今西氏は、「あれはヨーロッパのイデオロギーではないか」と述べていました。実際の生物界を見ていると、かげろうの幼虫のように誠にか細い生物でも、この世の中を立派に生きており、決して強い生物だけが生き残っているわけではないのです。生物界というのは、それぞれが自分の住み家、居場所というものを上手く棲み分けているというのが、今西錦司の棲み分け論の趣旨です。
確かに、蛇は蛙を食いますが、種のレベルで考えるなら、蛇という種は蛙という種を滅ぼしているわけではないのです。むしろ、それは共生なのです。これを建設業で喩えるなら、大手ゼネコンと、中小の地場企業がありますが、それぞれが棲み分ければ良いのだと思います。
したがって、力のある強い者だけが生き残る市場原理、競争社会というのは、疑問です。全人口のうちの40%の所得と、たった一人の所得が同等などという世界は、やはり異常だと思います。その意味でも、ダーウィンの進化論よりも今西氏の棲み分け論の方が、自然界の摂理に通っています。したがって、これからの21世紀は、共生の時代であるべきだと考えます。
その共生とは、相手を滅ぼすようなことがなければ、多少は傷つけ合っても良いという意味合いですから、そこに発生するコミュニケーションや交流、ふれ合いの場面にあっては、必ずしも意見が一致しなくても良いのです。ただし、コミュニケーションは、相手の立場にならないと成立しないものです。相手の立場で一応は考えることで、その先に連携というものが待っているのです。
その視点に基づいて、先の国際情勢を見ると、先述の通りにアメリカの力の政策は中近東が最重点ですが、イスラム社会の人々の立場に立って考えることを、果たしてアメリカ人はできるのかどうかが問題です。従来の力の政策、ハードパワーではなく、これからはソフトパワーをもって世界から尊敬され、信頼されるような国にならなければならないと思います。
実際に、先の大統領選挙が終了して後に、「こんな国は嫌だ」と、アメリカで生まれ育ったのにカナダに移住してしまった人々がいました。アメリカというのは、多民族国家ですから、それだけに多様な価値というものを認めるソフトパワーでなければならないと主張する人はいるのです。
そもそも、アメリカの建国の精神は、自由と民主主義で、自由に競争しようという社会ですから、力のあるものが勝ち、そしてそれが正義なのです。そのため、中近東に限らず東アジア引いては世界各国に対し、相手の立場に立って考えることが、果たしてアメリカにできるのかどうかが疑問視されています。
テレビで、ディベート番組などが見られますが、ディベートというのはアメリカの流儀なのです。先ずは相手が間違っているという前提から始まり、たとえ相手の発言の意味が分からなくても、内心で間違っているとは思っていなくても、とにかく間違っていると否定しなければディベートにならないのです。こういう類(たぐい)の論争は、私たち日本人には向きません。なるほどそれは良い考えだと、肯定するところから会話が始まりますから、ディベートにはならないわけです。そうした形で、相手の立場になって考えることを、概ね皆さんも普段から実行しておられると思いまが、多神教の世界とは、こういうものだと思います。
したがって、まずはコミュニケーションが重要です。必ずしも意見が一致しなくても良いのです。相手の立場に立って考えるなら、コミュニケーションは成り立つもので、その中で一部でも良いから意見が一致したとき、そこで一緒にやろうという結果に繋がります。これが連携というものです。このことを、私は広島赴任当時から考え続けていました。
二者択一でない平和な国土づくり
ちなみに、私の出身は京都で、国会議員として初当選した1974年は、まさに平安遷都1200年の年でもありました。平安時代というのは、華やかで平和な時代だったのです。江戸時代もそうですが、日本史の中で最も平和な時代と言われます。
そこで、平和な国土づくりを考えていた私は、平安時代の様々な仕組みや社会システム、社会の成り立ち、在り様、人々の暮らしぶり、生き様などに、平和の原理が隠されているのではないかと考え、平安時代について研究をはじめました。皆さんも何度か京都を訪問したことがあると思いますが、京都で生まれ育った私が、初めて平安時代のことを学んだ結果、今まで気がつかなかったことに気づきました。
それは怨霊という存在の多さです。平安時代には怨霊、鬼、妖怪の類(たぐい)がたくさん登場するのです。そして御霊信仰というものがあります。祇園祭も、趣旨は怨霊退治にあるのです。さらに、祇園祭の起源となる祭もあり、それは鉾(ほこ)をへその位置で支えながら振り回しながら練り歩くことで、悪霊、怨霊を祓うのです。御霊信仰、御霊さんというものがそれによって理解できたのですが、それが平安とどう結びつくのかというところで、私はワケが分からなくなってしまいました。(笑)
天台宗に円仁という人がいます。修学院には赤山禅院という・・・お寺か神社か判らないような・・・実に面白いところがありますが、これは円仁が唐から帰国して後、新羅(しらぎ)の神に助けられたことから、新羅大明神をお祀りしてあるわけです。そのほかにも様々な神がいるのです。円仁は、慈覚大師とも呼ばれ、現在は山形県の立石寺に祭られています。伝説では、京都で円仁が亡くなってから、その首だけが立石寺に飛んできたため、その首が立石寺にあるのです。そうした円仁の足跡を調べていても怨霊などというわけのわからないものがたくさん出てくるのです。
それが平安の平和とどう関係するのか、ハタと行き詰まってしまいました。そこで少し哲学の勉強をしなければならないと思い、本格的に哲学と取り組みました。
広島在任中には、哲学者の梅原猛氏や中村雄二郎氏を招いて講話を聴いたり、様々なことをしましたが、その後とりわけ重点的に勉強したのが中沢新一氏の哲学でした。冒頭に言及した通り、「ボロメオの結び目」、「メビウスの帯」などは、中沢氏が好んで用いるひとつの概念、モデルです。
中沢氏の著作もなかなか難解ですが、その底流には田辺元の「種の論理」というものがあります。桃知先生も言及された、二者択一ではなく三窟(さんくつ)の話に関連しますが、やはり二者だけでは駄目なのです。白か黒かではなく、全部でも良いのです。
例えば、皆さんにお尋ねしますが、会社の会長は善人ですか、悪人ですか?皆さんの判断としては「善人やろ…?、いや悪人かな?…」といった、曖昧な感じだと思います。善人と言えば善人であり、悪人と言えば悪人でもあり、また善人でも悪人でもないのです。二者択一で白か黒か、善か悪かを究明しようとすると、回答は得られないのです。だから第三者が必要となるのです。つまり、それが三窟(さんくつ)であり、また「ボロメオの結び目」に連なるものだと思います。
河合隼雄氏という世界的に有名な心理学者がおられます。あれほど高名な方が、なぜ文化庁長官などを務めておられるのかと不思議に思いますが(笑)、その方は矛盾について、よく語っています。例えば、現代のヨーロッパ・アメリカの科学文明、商品、タレントなども含めて、ものすごい勢いで日本に流入してきます。同時に、日本古来からの歴史・伝統・文化もあります。それら現在の科学文明の力と、古来の伝統文化との間で摩擦が様々に起こっています。それこそが、矛盾なのです。白か黒か、科学文明か伝統かということです。
そこで、第三の価値あるものを考え出し、科学文明も伝統文化も大切であり、どちらがどうということはないというのが、河合隼雄氏の主張です。彼に言わせると、それは矛盾システムであり、我々はこれから矛盾システムの中を、上手く生きていかなければならない。そのときに第三の輪が必要となるというわけで、それがコミュニティというものなのです。
日本の伝統的な考え方では、ふたつの頭である「両頭截断(せつだん)して、一剣天に依ってすさまじ」という禅の言葉がありますが、「両頭截断」とは相対的な二者択一的な考え方を捨て、白と言えば白、黒と言えば黒であり、且つ白でもなく、黒でもないという境地にまで至らなければならないという意味だと思います。これがまた種の論理でもあり、三窟(さんくつ)という考え方とも概ね同じものだと私は思います。
先ほどの桃知先生の話に、これからの世界は流動性知性が重要であるとの話がありました。私たちは、それを追求していかなければならないと思います。激しい勢いで科学文明が進むと同時に、アメリカの世界化も進んでいますが、それだけで世界に平和が訪れるわけではないのです。
最近、私は「モノとの同盟」ということをよく言います。これは中沢新一の概念でありますが、中沢氏によると、我々が「モノ」というとき、そこには魂が入っています。単なる物質に、魂が入った物を、我々はカタカナで「モノ」と呼び、そしてそこには心がこもっているのです。「モノとの同盟」と、「種の論理」、そして三窟(さんくつ)という理念が大事であります。
こうした理念を、アメリカ人に理解させるまではいかずとも、ヨーロッパ・アメリカの現代科学文明が世界を席巻している情勢下で、日本人的なものの考え方、感性として伝えることが必要です。相手の立場に立って考える「多様性の論理」、「種の論理」という考え方を、いかにして世界、各国に広げていくかが、極めて大切だと思います。

国際的コミュニティ活動で多様性を認める国際世論の形成を

そのためには、世界の人々に大いに日本に来てもらう必要があり、一方、日本人も積極的に世界各国に出向くべきだと思います。実際に、そうした動きはすでに始まっているようですが、これをさらに加速させる事が必要で、できれば個人レベルのつながりではなく、コミュニティ単位で実践できれば理想的です。
コミュニティと言えば、私は建設省出身で、そこには建設省ob会があり、それもひとつのコミュニティです。北大には北大の同窓会があると思いますが、京都大学の土木教室にも京都の「京」と土木の「土」を合わせて、京土会というものがあります。俳句の会や踊りの会など様々な趣味サークルも、ひとつのコミュニティです。これらは目的型コミュニティと分類されるそうですが、そのほかにも血縁的なコミュニティがありますね。しかし、私が特に注目しているのは、地域コミュニティです。
地域コミュニティレベルの交流としては、こんな例があります。兵役として旧満州に渡っていたことのある秩父在住の人は、中国黒竜江省に縁あって、秩父の人と黒竜江省の女性との縁結びをしました。秩父にはそうしたケースが10組ほどあるそうで、秩父での評判は非常に良いとのことです。中国では、同族で地域コミュニティを形成しているところが多いとのことです。そのコミュニティのリーダーは税務署長を勤める立派な方ですが、日本に対しては非常に良い印象を持ち、信頼を寄せているため、日本に嫁がせる女性は、責任を持って推薦できる人を紹介しているとのことです。
一方、少子高齢化の進んでいる秩父でも、秩父郡としてひとつの郡を形成していますが、若者の流出から過疎化が進み、高齢者の比率が非常に高くなっています。そのため、地域には介護施設や病院などがいろいろとあるのですが、若い働き手がいないのです。そこで、なんとか黒竜江省の若者に秩父の施設で働いてもらう方法を模索しようとの動きがあります。このように、コミュニティ単位で国外とのコミュニケーションを図りつつ、何らかの企画を協働しようという動きが起こってくれればと思います。
今後は、アメリカの世界化を、我々日本人が軌道修正するという覚悟を持ち、実際にその役割を果たさなければならないと思います。そうした世界的な視野をもって、地域のコミュニティの問題に取り組んで欲しいものです。
特に、建設業界は、農業分野に進出している方も多く、農協、土地改良区など農業関係の団体もあり、逆に建設業団体が不安視しているように見られますが、建設業界関係者が、地域の問題に関心を持ち、特に海外とのつながりを密にして欲しいと思います。
私は国土交通副大臣ですが、特に観光政策を担当しています。小泉総理が、一昨年の国会の本会議で、観光立国宣言をされました。それまで知財立国とか、貿易立国、技術立国など、立国という言葉はいくつか提唱されましたが、時の総理が国会の本会議場でわざわざ立国宣言をされたということは、勿論始めてのことであり、それだけに意義深いものがあります。国土交通省においても重点政策として取り組んでいますが、コミュニティ単位の草の根の国際交流も、観光という概念に含めて考えるべきではないかと、私は考えています。
国際的コミュニティ活動を促すインフラ整備
国土交通省は、これまでに全国総合開発計画を策定してきました。この度は新法が制定される予定であり、そうなれば、国土計画の内容は一変し、基本的な考え方が変わります。今まではひたすら開発を進めてきましたが、あまり開発という概念を前面に押し出すのはどうか、との意見が大変多く、今後は開発という用語は使わず、国土形成計画と呼ぼうかと議論している最中です。従来の国土総合開発法の根本的な見直しですから、事実上は廃止のようなことです。新しい国土形成計画法という法律ができると考えていただいて結構です。是非、今通常国会で成立を図りたいものです。
その新しい制度の中で、21世紀を中長期的に見て、チャレンジ精神を持って新しい取り組みをしなければなりません。時代を先取りする政策が必要だと思います。今までは全国総合開発計画と呼び、一次から五次まできました。第五次のときに、初めて「21世紀の国土のグランドデザイン」という言葉が用いられました。
この五全総の中で、過疎地域を多自然地域として、これから日本が新しい政策を実施する上での、最先端フロンティアと位置づけたのですが、ほとんどは文言だけで、具体化はされませんでした。私は今度の国土形成計画においては、それを明確に伝えながら、どのような具体的な方法でこれを実現していけば良いのか、真剣に検討したいと思っています。
先日、北海道開発局の吉田局長と話する機会がありました。吉田局長は、明治の開拓、昭和の開拓、平成の開拓と仰っていました。そこで、私はすばらしい自然条件に囲まれた良いところがたくさんあるので、積極的に外国人の受け入れを考えたら良いのではないか、外交というレベルではなく、草の根的な国際交流を通じて北海道にきてもらうための仕掛けをいろいろと考えるのが良いと提案しました。
無為に放置していても、国際的な交流あるいは本州との交流は、盛んになるわけではありません。草の根交流、あるいは旅、あるいは観光というものは、放っておいても自然に盛んになるわけではないのです。やはり何らかの仕掛けが必要です。
ただし、現在の政府には予算が乏しく、財政再建が大きな課題になっています。しかし民間には投資余剰、資金があるのです。そのためにpfiというものを、私は提唱しているわけです。必要な公共事業を、民間の資金を活用しながら民間主導で、また民間のノウハウで交流が興るように、いろいろと知恵を出し合って行くのが良いと思うのです。
例えば、北海道ではニセコが大変注目されています。特に雪質が良く、温泉もあり、観光地として大変、恵まれていることから、オーストラリアの資本が様々に流入しています。そのため、観光地としては優等生のように見られているかもしれませんが、それぞれの地域にその地域ならではのすばらしい場所というものがあります。北海道の至る所にそうした地域があるので、海外からの観光客や、草の根の国際交流の場として、多くの人にきてもらう施策を考え、そのために必要な支出をすれば良いと考えます。
「ワシントンの大酋長へ。そして、未来に生きる、すべての兄弟たちへ。
どうしたら、空を買えるというのだろう?そして大地を。
私には、わからない。風の匂いや、水のきらめきを。
あなたは一体、どうやって買おうというのだろう?
あらゆるものが、つながっている。
私たちが、この命の織物を織ったのではない。
私たちは、その中の一本の糸にすぎないのだ。
すべて、この地上にあるものは、私たちにとって、神聖なもの。
松の葉の一本一本、岸辺の砂の一粒一粒、深い森を満たす霧や
草原になびく草の葉、葉かげで羽音を立てる虫の一匹一匹に至るまで、
すべては、私たちの遠い記憶のなかで、神聖に輝くもの。
私の体に、血が巡るように、木々の中を樹液が流れている。
私はこの大地の一部であり、大地は私自身なのだ。
川を流れる、まぶしい水ではない。
それは、祖父のそのまた祖父たちの血。
小川のせせらぎは、祖母のそのまた祖母たちの声。
湖の水面にゆれるほのかな影は、私たちの遠い思いを語る
川は、私たちの兄弟。
渇きを癒し、カヌーを運び、子供たちに、惜しげもなく食べ物を与える。
だから白い人よ。
どうか、あなたの兄弟にするように、川に優しくしてほしい。
生れたばかりの赤ん坊が、母親の胸の鼓動を慕うように、私たちはこの大地を慕っている。
もし、私たちがどうしても、ここを立ち去らなければならないのだとしたら、
どうか、白い人よ。
私たちが大切にしたように、この大地を大切にしてほしい。
美しい大地の思い出を、受け取ったときのままの姿で、心に刻みつけておいてほしい。
そして、あなたの子供の、そのまた子供たちのために、
この大地を守りつづけ、私たちが愛したように、愛してほしい。
いつまでも、どうかいつまでも」
環太平洋ネットワーク
私が著作「劇場国家にっぽん」(新公論社)の中で力説しているのは、「環太平洋の環」の発想です。ベーリング海峡からアジア、南北アメリカ、太平洋を中心とする「環太平洋の環」には、古くからアメリカインディアンや、アイヌ、我々日本人も、属しているわけです。それらの民族に共通するのは、蒙古斑点を持っていることです。ポリネシアなど、太平洋の島に生きる人々にもあるのです。私は一昨年に、マダガスカルという国を訪ねました。マダガスカルという国は、アフリカの横に位置する小さな島ですが、それでも日本の1.6倍の面積で、アフリカに最も近いアジアの国と呼ばれています。その地域の人々にも蒙古斑点があります。
NHKの「人類遙かなる旅」という番組が、3冊シリーズの書籍として発行されましたが、それによれば、世界の人類を大別すると、三つに分かれるとのことです。最初に人類が発生するのはアフリカで、そのときには、まだヨーロッパにもアジアにも南北アメリカにも人類はいなかったわけです。ある時、地球規模の気候変動が起こって、一部の人がヨーロッパに渡り、そこでヨーロッパ人が形成されていくわけですが、その頃にも、まだアジアにも南北アメリカにも人類はいませんでした。そこで、また地球規模の気象変動が起こり、民族大移動が行われ、そしてベーリング海峡を渡りました。ベーリング海峡を渡って北アメリカ、そして南アメリカの南端まで到達するわけです。コロンブスがアメリカ大陸を発見するときよりはるかな昔、1万年ほど以前の話ですが、我々はそうした民族の大移動によって、「環太平洋の環」の真っ只中にいるわけです。
アメリカにはインディアンがおり、北海道にはアイヌがいます。そのアイヌにはユーカラという叙事詩や神話がありますが、これは文化として素晴らしいものです。その感覚を、我々はもう少し学びながら、それを世界に発信していくことが必要だと思います。
一方、私はネイティブアメリカンであるインディアンについても勉強していますが、我々とインディアンの感覚がほぼ同じであることを著作でも言及しました。それを示すインディアンの手紙を読ませて頂きたいと思います。「1854年、第14代アメリカ大統領ピアスはインディアンの土地を買収し、居住地を与えると申し出た。翌年、インディアンの酋長シアトルは、この条約に署名をする。そのとき、シアトル酋長がピアスアメリカ大統領に宛てた手紙が次の一文である」というものです。(
このように素晴らしい詩・・・、これが私たちの感性であり、蒙古斑点を持っている民族に共通の感性ではないか思います。
この3月から、いよいよ愛知県で万博が行われます。愛知万博のひとつの大テーマは「自然の英知に学ぶ」というものです。自然というのは極めて大切です。私は全国の自然を考えたときに、北海道が最も恵まれていると思います。この素晴らしい「北海道の大地」をどう活かすのか、コミュニティ単位で、国際的な草の根運動も考えながら、どのように描くか、それを具体的に考え、実行に移せるのが、建設関係者なのだと思っています。
建設業は、まさに地域とともにあります。地域の発展がなければ、建設業の発展は望めません。逆に、建設業が活き活きと発展するようでなければ、その地域は駄目だと思っています。つまり地域と建設業は運命共同体なのです。
したがって、是非とも世界的な視野で、世界平和を考えながら、コミュニティ単位で素晴らしいコミュニケーションを行い、そしてネットワークをつくっていただきたい。その上で、インターネットはもちろんフルに活用すべきですが、ヴァーチャルな社会だけでは駄目で、その大地に足をつけたかたちでコミュニケーションしていく必要があります。
以上のことを、空知建設業協会員の皆様方にもお願い申し上げ、お話を終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

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