福田内閣の唐突辞任で、日本中が呆気にとられた。組閣したばかりで国会も経ないままの辞任に、各方面からは「無責任」の大合唱だが、唐突辞任はすでに安倍前首相で経験済みであるから、今さら驚くほどのことともいえまい。そもそも一内閣では解決できそうもないほどの困難な内政課題が山積しており、それらに立ち向かうには、デモシカ総理であった福田氏では線が細すぎたといえる。
一部の報道では、福田内閣は国民を敵に回していたとの指摘も見られたが、これは興味深い指摘である。解釈は様々であるが、福田内閣に限らず小泉内閣以降、三代にわたって構造改革路線を踏襲し続けることで、政府は国民を敵に回してきたといえるだろう。赤字国債の解消のために、構造改革として郵政民営化を実現したところまでは良かった。こうした公益サービスなどの規制緩和は、政府支出を軽減する一方で、民間企業による新規参入やベンチャーの間口を広げるので、行政サービスの劣化というリスクは伴うが、反面では産業・経済の活性化の刺激剤とはなり得る。
しかし、その後に行われた構造改革とは、国際的市場開放によって国民・企業を外圧に晒し、見殺しにすることであった。特に小泉政権で行われた規制緩和は、反中親米主義に基づくアメリカからの外圧に屈した市場開放政策で、自国民ではなくブッシュ政権と米国民を喜ばすための政策である。この結果、地域性や経済的成育度の違いなどを全く無視した欧米投資家の、デリカシーのない反文化的数学論理に基づき、日本企業はM&A攻勢に晒され続けたのである。
また、原油、物価上昇で消費生活にしわ寄せを受けている国民・企業に対して、政府はサミットを主催しながらも、国際的な解決への具体的な道筋を作るわけでもなく、かといって内需拡大や価格調整のための補正予算を編成するでもなく、無為無策のままに時間だけを浪費した。のみならず、あらゆる業界の生産者と消費者が、原油高に苦悩している一方で、インド洋での無償給油の国際貢献である。
やっていることを見れば、ひたすら対外的な体面を保たんがために、自国民を犠牲にして負担を強いるばかりである。世界中のどこに、自国民を救わずに他国民を救おうとする政府があるだろうか。
そもそも800兆円を越える赤字国債のうちの65兆円は、バブルに踊り狂った金融機関の不良債権処理のために援助されたものである。ところが、かつて国民に助けられた金融機関は、サブプライム問題によるアメリカ発の世界金融不安から、国民・企業を助けるどころか、貸し渋りや貸し剥がしに血道を上げ、リスク回避による自己保身に走った。恩人の顔を蹴ったようなものである。
その支出を決定した政府は、これまた国債償還の緊急性を国際社会に訴えて、理解と協力を得るのではなく、むしろ支出削減とさらなる増税など、国民・企業を犠牲にする内政で解決することだけを目指してきた。つまり、世界に対してはいい顔を見せつつ、構造改革を隠れ蓑にしながら、金融機関と同様に国民・企業を犠牲にして自己保身に走ってきたようなものである。これでは国民を敵に回していると解釈されても不思議ではない。
構造改革という曖昧な表現によって、その真義がとかく見失われがちだが、小泉発の構造改革とは、無駄な支出を経常的に行っている政府の構造を改革し、本来国民のために支出されるべき予算が、余すところなく全額が正しく支出されるように改善することである。同業者との競争に凌ぎを削り、新商品の開発、人員の配置転換、コストダウンなど、すでに日頃から自主的な構造改革に全力を挙げて生きている国民・企業に求めるべき筋合いのものではない。
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